カテゴリ:わたどう~ウチカレ~らんまん!
朝ドラ「らんまん」の東京編。
いろんな人物が次々に登場しています。 土佐にいたときは、 坂本龍馬にしろ、池田蘭光にしろ、 早川逸馬にしろ、ジョン万次郎にしろ、 進歩的な考えの人たちに出会うことが多かったけど、 さすがに東京は、 かつて幕府のお膝元だっただけに、 佐幕派と倒幕派がせめぎあった記憶がまだ生々しい。 ◇ 長屋に住む倉木隼人は、 佐幕派の人間で、彰義隊の生き残りです。 その妻の倉木えいは、 彰義隊の行進のときに彼を見初め、 上野戦争で血だらけになったところを救ったのだと。 江戸城下で育った人たちは、 薩長が幅を利かす新政府なんぞより、 彰義隊を応援する気持ちが強かったのかもしれません。 社会を二分した戦いの傷跡が、 当時の東京にはまだ生々しく残っていて、 倉木のような敗者のなかには、 新しい時代に背を向けている人たちもいたのでしょう。 … 大東駿介の演じる倉木は、 登場したときから異様な存在感を放っていましたね。 不穏なやさぐれ感と同時に、ただならぬ色気もあって…。 最初は「この俳優誰だっけ?」って感じで、 大東駿介の名を思い出すまで、だいぶ時間がかかりました(笑)。 妻を演じる成海璃子も、 この手の役はとても上手いので、 この夫婦だけで1本のドラマになりそうな感じ。 なんなら倉木夫婦だけのスピンオフを見てみたい! ◇ …彰義隊といえば、 大河「青天を衝け」の渋沢喜作が率いた部隊です。 喜作を高良健吾が、平九郎を岡田健史が演じていました。 しかし、渋沢喜作は、 結成してまもなく、副長の天野八郎と対立したので、 別動隊の「振武軍」を結成しました。 結果的には、 彰義隊も、振武軍も、 新政府軍に敗れて、ほぼ全滅。 とくに平九郎は凄惨な死を遂げました。 ◇ このような佐幕派に対して、 寿恵子の父は、彦根藩(井伊家)の旧士族。 佐幕派と倒幕派の板挟みになりつつも、 いちおうは開国派だったろうと思います。 しかし、新政府の陸軍に入隊し、落馬事故で死んでしまった。 寿恵子の母は、 お妾さんだったとはいえ、 どこかしら旧士族の誇りを持っているように見えます。 … そして、 鹿鳴館のオジサンたちは、まったくの開国派。 みんな留学帰りなのだと思いますが、 いまや文明開化を推進している欧化主義者です。 手前が東大の田邊教授。 左隣が政府高官の佐伯遼太郎。 正面が管弦楽協会理事の名須川正宗。 右側が旧薩摩藩の高藤雅修。 ピアノを弾いてるのはクララ・ローレンス。 みんな既婚者のはずですが、 外国人のクララや、若い寿恵子にまで色目を使っている。 渋沢栄一も、フランス流の自由恋愛の流儀で、 妾や愛人をたくさん作っていましたが、それと同じです。 ◇ 田邊教授のモデルは、矢田部良吉。 実際、矢田部は、 植物学者でありながら、 鹿鳴館時代の欧化政策に深くかかわり、 音楽についても「俗曲改良」などを提唱していました。 詩歌の改良を目指して矢田部らが編集した『新体詩抄』からは、 「抜刀隊」(詞:外山正一/曲:シャルル・ルルー) という軍歌が生まれ、 1885年に鹿鳴館の大日本音楽会演奏会で発表されました。 これが七五調の歌詞を導入した最初期の西洋音楽だったそうです。 矢田部がクララ・ホイットニーにつきまとっていた、 …みたいな実話もあります。 いうまでもなく彼女がクララ・ローレンスのモデルです。 政府高官の佐伯遼太郎は、 てっきり井上馨がモデルかなと思いましたが、 「井上外務卿」の名前はちゃんと出てきたので、 ほかに誰かモデルがいるのかもしれません。 管弦楽協会の名須川正宗は、 音楽取調掛の伊沢修二あたりがモデルでしょうか。 … そして問題なのは、 薩摩出身の実業家、高藤雅修ですよね! 薩摩の実業家といえば、 なんといっても五代友厚のことを思い浮かべますが、 当時の彼は、おもに関西で活動してましたし、 この翌年ぐらいには病死してしまいます。 なので、 むしろ高藤のモデルは、中井弘じゃないかと思います。 彼は、薩摩出身の政治家で「鹿鳴館」の名付け親。 ちなみに、中井弘は、 大隈邸に出入りしていたころ、 柳橋の芸妓だった新田武子に一目惚れして強引に結婚した、 との伝説があります(真偽は怪しいですが)。 今回のドラマで寿恵子に一目惚れするエピソードは、 この伝説を彷彿とさせます。 中井弘は4回も結婚しているらしいのです。 なお、中井が惚れた新田武子とは、 のちの井上馨の妻、すなわち井上武子のことです。 大河「青天を衝け」では、愛希れいかが井上武子を演じていました。 大河では、渋沢兼子が養育院でバザーを開いていましたが、 井上武子も、渋沢の娘の歌子らと鹿鳴館で慈善バザーを開催したそうです。 ◇ ついでに、東京大学の友人たち。 彼らにも実在のモデルはいるでしょうか? ウサギの世話をする藤丸くんは、 キノコなどの菌類研究を志しています。 彼の実家は酒問屋だそうです。 そのモデルと思しき人物が何人かいます。 1人目は、白井光太郎(1863年生まれ) 2人目は、田中延次郎(1864年生まれ) 3人目は、南方熊楠(1867年生まれ)です。 みんな菌類学者です。 牧野富太郎が1862年生まれなので、年齢も近い。 いちばん可能性が高いのは、田中延次郎です。 実家が酒屋だということもあるし、 牧野の自叙伝にも、 市川延次郎(後に田中と改姓)・染谷徳五郎という二人の男が、当時選科の学生で、植物学教室にいたが、私はこの両人とは極めて懇意にしていた。市川の家は、千住大橋にあり、酒店だったが、私はよく市川の家に遊びに行った。 …とあります。 藤丸くんも「隅田川の手前、千住の南で問屋をしてる」と言ってます。 ◇ 南方熊楠も、 牧野と同じく、1884年に東大に入っています。 熊楠が入ったのは、現在の教養学部で、 牧野が通ったのは、現在の理学部だと思います。 熊楠は和歌山出身で、実家はもともと金物屋でしたが、 ちょうど1884年に父親が「南方酒造」を創業しています。 (酒類への税制が厳しい時期に事業をはじめたのですね) 現在も「世界一統」という会社が存続しています。 熊楠は、 菌類の標本採集に明け暮れて、翌年には大学を中退しています。 ◇ メガネをかけた波多野くんは、 植物交配による品種改良を志しているようです。 誰がモデルなのかは、よく分かりませんが、 先の自叙伝に出てくる染谷徳五郎なのかもしれません。 ちなみに、明治時代には、 「団十郎朝顔」というアサガオの品種が流行しました。 … 東大の植物学教室には、 野宮朔太郎という画工も出入りしていますね。 そのモデルは、平瀬作五郎だと思います。 彼は、福井や岐阜の中学校で図画を教えたあと、 1888年から東大の植物学教室に勤務していました。 なお、洋画家の岡不崩らも、 東大理学部の付属施設である「小石川植物園」で、 1886年から植物を描いていたようです。 ※1897年には植物学教室が小石川植物園に移転します。 ◇ 最後に、 おなじ長屋で文士を目指す堀井くんのモデルは、 まちがいなく坪内逍遥でしょう!! 東大の落第生だったところも堀井くんと同じだし、 TOKYO FM「yes」のサイトには、 ≫ ハムレットの登場人物論を滝沢馬琴的観点で論文にしたが、酷評を受け試験に落ちた とのエピソードが載っています。 これも、堀井くんの話とまったく同じです。 堀井くんは文学雑誌の創刊を目指してるようですが、 坪内逍遥は、1891年に『早稲田文学』を創刊しています。 長田育恵が語る坪内逍遥。 なお、南方熊楠も、坪内逍遥も、 寿恵子と同じように「滝沢馬琴マニア」のオタクでした。 なので、 藤丸くんや堀井くんも「馬琴マニア」の可能性があります。 万太郎がうかうかしていると、 馬琴マニアどうしが仲良くなってしまうかもしれません(笑)。
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最終更新日
2023.06.19 16:16:36
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