洲崎神社
(すさきじんじゃ)
概要
東京都江東区にある神社です。
江戸時代の海岸線は当社の付近にありました。当時は風光明媚な場所のため、観光名所として繁栄しました。
神紋・社紋
主祭神
市杵島比賣命
(いちきしまひめのみこと)
創建
元禄13年
(1700年)
例祭
8月3日
略縁起
元禄13年(1700年)護持院光大僧正の御尽力により、江戸城中紅葉山に五代将軍綱吉公の御生母桂昌院の守り本尊である弁財天(弘法大師作)と稲荷社を祀り洲崎弁天社と称しました。
以来当社は江戸の観光名所として栄え、明治の神仏分離の際、洲崎神社と改めました。
境内
社殿
狛犬
手水舎
神輿庫
鳥居
豊光殿・授与所
津波警告の碑
東京都指定有形文化財(歴史資料)波除碑所在地 江東区木場六の一三の一三指定 大正一三年二月五日 府仮指定寛政3年(1791)、深川洲崎一帯に襲来した高潮により、付近の家屋がことごとく流されて多数の死者・行方不明者が出た。幕府はこの災害を重視し、洲崎弁天社から西方一帯を買い上げて空地とした。その広さは東西285間余、南北30間余、総坪数5467坪余(約1万八千㎡)に及んだ。そして空地の両端の北側地点に、津波碑を二基建立した。建設は寛政6年頃で、当時の碑は地上六尺、角一尺であったという。現在は二基ともかなり破損しており、特に平久橋碑は上部約三分の二を失っている。碑文は屋代弘賢と言われているが、二基ともほとんど判読不能である。『東京市史稿』によれば、「葛飾郡永代浦築地 此所寛政三年波あれの時家流れ人死するもの少からす此後高なみの変はかりかたく流死の難なしといふへからす是によりて西は入船町を限り 東ハ吉祥寺前に至るまて 凡長二百八十五間余の所 家屋とり払ひあき地になしをかるゝもの他 寛政甲寅十二月日」と記されていたという。材質は砂岩で、総高は平久橋碑が130.8㎝、洲崎神社碑が160.1㎝。現在の位置は、旧地点を若干移動しているものと思われる。江戸時代の人々と災害の関係を考える上で重要な資料である。平成23年3月 建設 東京都教育委員会境内掲示板より
石碑
境内社
玉の腰たまちゃん
由来玉の輿たまちゃん五代将軍・徳川綱吉公の生母・桂昌院(幼名=お玉)は八百屋の娘から武士の養女・公家出身の尼僧の侍女へそして将軍・家光の側室まで上り、立身出世したことから、桂昌院が「玉の輿」の語源・代名詞となったことが頷けます。当社は1700年に桂昌院が建立したのが始まりです。洲崎神社社務所当社・掲示板より
豊川稲荷神社
於六稲荷神社
弁天社
住所
東京都江東区木場6-13-13
アクセス
東京メトロ東西線 木場駅
(1番及び2番出口) 徒歩2分
最後に
爽やかな気がする神社でした。
参拝を終えて入り口に戻ると、津波警告の碑に目がとまりました。江戸時代に津波が当社一帯にやってきたのですね。東日本大震災の映像が脳裏に浮かびました。
災害は忘れた頃にやってくる、と言います。日頃から防災に気をつけていきたいものです。
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参考
東京都神社庁HP
Wikipedia