貧乏石好き

つれづれなるままに石をめぐりてよしなきことを

翡翠

2021-11-25 19:11:26 | 国産鉱物

翡翠は、他の石とはちょっと違う。
何かしら茫漠とした、懐かしさともの悲しさが混じり込んだ、独特な感懐を覚える。

翡翠は日本の「国石」。一万数千年の昔から、縄文人・日本人は翡翠を愛でてきた。
それがDNAのどこかに刻まれている。そんな気もする。

ちなみに、中国の緑色の「玉」は、ネフライト、軟玉で、硬玉(翡翠、ジェイド、ジェイダイト、ヒスイ輝石)とは別物。中国では硬玉の翡翠は採れないという。その代わりネフライトに対する熱愛はものすごいらしい。お金持ちは家中ネフライトで飾り立てる。そう言えば近くの中国人経営の料理屋もそこら中にネフライトを飾っていたなあ。

軟玉の強い緑とは違って、翡翠の見た目は、派手ではない。ぼやけた感じで、緑(時に青や黒)が滲んでいる。
けれどその茫洋さが、心の内に湧き起こる茫洋たる感懐と溶け合って、見つめている時間はこの世の時間とは違うものになる。
もしかしたら、私は何度か前世で日本に生まれ、翡翠を愛でたり、得たいと渇望したりしたのかもしれない。そんな空想さえ浮かぶ。

翡翠と言えば糸魚川。実際は糸魚川という川はなくて姫川らしいけど。あちきもずっとあそこにあるのは糸魚川だろうと思っていた。そういう市名を付けるからいけない。
糸魚川と言えば、泣く子も黙るフォッサマグナ。(いや黙らんだろ)「糸魚川富士川断層」と昔は習ったけれど、大断層ということではなさそう。
「本州の中央をU字型の溝が南北に走り、その溝に新しい地層が溜まっている地域」(ウィキ)
けれど、「現在のプレートテクトニクス理論ではアメリカプレートとユーラシアプレートの境界に相当するとされる」(ウィキ)のだそうで、やはり大きな「裂け目」であることは間違いない。活断層もたくさんあるみたいだし。結局のところ何なのかよくわからないけど、面白い。
まあ、何ですね、フォッサマグナの西と東では、どうも人の性質も文化も違う感じがする。何かやはりあるみたい。
ちなみに姫川では「姫川薬石」というものが採れる。これば別に。

糸魚川の翡翠は、もうあまりいいものが採れないという人もいる。
それでもたくさんの翡翠ハンターが相変わらず採取に訪れているらしい。なかなかいいものが出ている感じ。地元の翡翠屋さんのツィッターにはそんな報告がよくある。

これは、名取貴石さんという老舗の通販で購入したもの。割と安くてありがたかった。
このお店はもう一つの伝統石「黒曜石」の本場・和田峠からさほど遠くないところにあって、黒曜石はもとより、十勝石、佐渡の赤石など、日本の伝統石も扱っている。自社で磨きや修理も行うレアなお店で、これもつるっつるに磨かれている。少しつるつる過ぎるかもしれない(笑い)。

最近はミャンマーの翡翠が多く出回っていて、美しいものもけっこうある(特に青色の強い模様が入ったものは素晴らしい)。でも、その表情は、どうも糸魚川産とは趣が異なるような気がする。
もっともミャンマーも変なことになっているから、翡翠はそのうち入手困難になるかもしれない。
今のうちだぞ、というのは天然石業界でよく言われる言葉。実際そうだったりそうでなかったり。いずれにせよ高いから買えない(笑い)。

翡翠の特質は、「理想型」というのがないということではないか。
「これこそ理想の翡翠です」というのは、ない。青でなければいかんとか、模様はこういうふうでなくてはだめだ、とかいうことはない。様々な色や模様があって、それぞれなりに美しい。自分で採取した人なら、それが世界で一番美しい翡翠になる。
この「理想型を作らない」というのは、日本文化の一つの特質かもしれない。あまりに理想的・典型的なものを嫌う。
盆栽だって、あまりに型にはまった五葉松なんていうのは、感心するけれど人気があるかというと疑問。どこかいびつだったり、枯れていたりする姿に、人は魅了される。
茶碗だって、歪んでいたり、欠けたのを金継ぎしたものだったりを愛する。
「数寄」の世界と言うのか。何なのかよくわからないけれど、とても面白い。

日本の翡翠は、中国人のように部屋のあちこちに飾り立てるようなものではない。小さいものを一つ引き出しに入れておいて、時々取り出して眺めて、茫洋とした時間を過ごす。そんな愛で方がふさわしいような気がする。


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