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委奴国  ③委奴国は伊都国である

2022-09-03 20:49:00 | 金印「漢委奴国王」


金印に彫られている「漢委奴国王」の読み方が「漢の倭の奴の国王」と

解釈すると、
「漢の倭の奴の国王」の倭の漢字が金印では、
なぜ「漢委奴国王」の委の漢字になっているのでしょうか?
おかしくはないでしょうか!

西暦57年に漢より授かった金印に彫られている「漢委奴国王」は
一般的には漢の倭の奴の国王と解釈され、魏志倭人伝に30国の国名の中の奴国と解釈されてますが、
そうすると納得出来ない(話の辻褄が合わない)点が出てきます。
果たして金印に彫られている「漢委奴国王」の委は倭が正しく金印の委は倭の彫り間違いなのでしょうか?
あるいはわざと倭を委とワザと彫ったのでしょうか?
ワザと倭を委と彫る必要性が有ったのでしょうか?
又、彫り師が間違って倭を委と彫ってしまったが光武帝は気がつかなかったのか?
或いは、相手は漢字が読めないからそのままで良いと間違った漢字表記の金印を渡してしまったのでしょうか?

この様な不自然な解釈がますます分からなくしてるのではないでしょうか?

なぜ魏の時代には後漢より金印を受け取った奴国が衰退して、

邪馬台国の卑弥呼が、魏国の皇帝より金印を受け取る事になったのか?

魏志倭人伝にはそんな事は一切書いてなく、また、その他の中国の古文書にも一切書いてありません。

奴国が金印を授かった国だと、過去に王がいた事が魏志倭人伝には記述されてません。


奴国が衰退し邪馬台国が奴国に代わって力を付けて来たのではなく、
西暦57年に金印を授かったのは倭の奴国ではなく、委奴国ではなかったのでしょうか?
委奴国は倭の奴国と読まず委奴国という国があったのではないでしょうか。
その様に読んだ方が自然だと思います。

では、委奴国とは、魏志倭人伝の記述されている30国の内、どの国でしょうか?
 委奴国は後漢の光武帝から西暦57年に金印をもらい
委奴国の首長は委奴国王と漢の国より認められる事が出来た。
これは大変な事で、他の国が勝手に王と名乗ってもそれは認められない。
例えば誰かが勝手に「私は天皇だ」と言っても周りで誰も認めないのと一緒です。
しかし、委奴国は中国の後漢の光武帝より委奴国の王と名乗っても良いとお墨付きを
頂いたのだから、委奴国の首長は正々堂々と委奴国王と倭の国々に言い振舞ったのではないでしょうか?
なので、倭の国々で唯一王と名乗れたのは委奴国の首長だけです。

この様に西暦57年に中国後漢の光武帝より王と名乗るのを認められてから
委奴国の首長は代々王を引き継いできました。


私が調べた限り、魏志倭人伝の漢文のうち、王の記述が有るのは、

1.伊都国 2.邪馬台国 3.狗奴国の3国のみでした。



1、伊都国 (代々王が有る)


2、邪馬壱国(女王の住む都)

3、狗奴国 (男子を王と為し)

魏志倭人伝に伊都国は代々王がいたと記述されています。

委奴国は伊都国で漢字表記は変わっていますが、委奴国と伊都国は同一国です。
金印を授かった当時は委奴国と権威のない漢字を使って表記されていたが、
後に委奴国は「都」の漢字を使い、

また「伊」は中国でも権威のある人物の姓に使われている漢字表記にグレードアップされてます。
伊都国の王は後漢の皇帝と信頼関係が深かったのではと推測出来ます。



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