(貝殻で製作)
お墓参りの帰り美味しい竹岡を食べ富津公園まで来ました
我が家の墓は東京湾を望む見晴らしの良い低山🏔️の中腹にあります
お寺の敷地内に有る墓の檀家の皆さんと同じですが江戸時代先祖が四国巡礼をした
二十数人(新宅となる人)と共同で低山🏔️を登記し見晴らしの好いこの場所に墓を建てたそうです
代々の登記者以外は誰も墓を建てる事は出来ないと亡き父から聞いています
そして自宅の上の墓も此方の墓も整理し全て供養塔に収め供養し蓋をしました
隣に新しく先祖代々の墓を建てましたが両親が健在なので赤文字で仮の屋号を刻みました
母が先に亡くなったので本格的に墓をリホームし完成させ母を埋葬しました
長男で有る私は妻と結婚した時点で実家には入らないと決めていたので墓代は全て出しました
両親には申し訳ないと思い出来る限りの事はしました
帰省してから弟に話すと弟夫婦が実家に入ってくれました
長男としての財産相続分も全て放棄し弟に譲りました
そして両親の生活費も出し弟夫婦が面倒をみてくれました
両親が健在中は最後まで出しましたね
墓代は高級国内車一台分でしたが最初の工事は現金で払いました
妻にも内緒で行動しました・残りの工事代金はローンで払いました
そしてUターンし家を新築したので5年間は大変でした
墓のローン・自宅の建設ローンと重なりましたから・・
それが終わると会社の本店を建てました
本店は2回に分け増築しました
また独立したての頃のように朝~夜遅くまで夢中で働きました
会社の売り上げの為に弟も一緒に頑張ってくれました
そんな姿を見ていた妻は言いますす。
「長男だからと言ってそこまでする人は10人中何人いるでしょうか」
「自分の自宅も建築中なのに」~~
私の体を心配していましたが私はいま頑張らないと~~~
これ以上歳をとり無理が出来なくなると考えていました
私は先祖が見守ってくれたからここまで元気でこられたと信じています
そして妻の手をかりゆっくり何十年ぶりでしょうか・登りました塔の頂上へ
腰の手術してから初めてです~~~潮風は気持ち好いですね~~
【育てくれた両親に恩返しが出来た達成感に浸りながら・・・】
【自社建物(本店)も建てる事が出来ました・・・自身信じられません】
【東京湾を愛する妻と2人で見ながら~~よく此処まで頑張れたな・・・】
富津公園の展望台から~~~ ~~
対岸に見える富士山・・・手前に見える人工島第1海堡
先祖も東京湾・晴れた日は富士山を見・見晴らしの良い低山🏔️の新規の供養塔から
見ているのでしょう
そして私達を守ってくれている事でしょう・・・・・
明治から大正にかけて、首都東京を防衛するために東京湾口部に海堡(かいほう)と呼ばれる海上要塞が建設された。海堡は砲台を設置するために造られた人工島で、千葉県富津岬かから神奈川県横須賀市側にかけて3つの海堡が建設されました。 では
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朝のルーティーン一・・・・・ 1日8000歩・・・・・
(フォロー~~~有難うございます〜) うれしいです~~ では
当時3歳の息子です~~~~~ では
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*一人・・・子*
息子も30代になり立派な優しい大人に成長しました
常に私達夫婦を気遣ってくれます
私の誕生日には高いブランデー・シャンパンとビーチコーミング用
洋服とズボンをプレゼントしてくれました
砂浜を歩きやすい格好と濡れても直乾くスニーカーです
妻の誕生日には軽自動車をプレゼントしたようです
【くらすし】に招待してくれを飲みながら上ウナギ、握り寿司を食べます
今度は私の愛車を買い替える時、代金を出してくれるそうです~~~~~感謝です
高校出て一般大学の試験は受けづ、都内の電子工学院を受け電車で通ってくれました
高校在学中に進路は決めていたそうです
卒業後はさらに2年多く院に通い一段上の国家資格を取ったようです
私と同じ、電気技術者を目指したようです
片道1時間40分の電車通勤です
そして数種類の国家資格を取り種類も資格数・レベルも私より多いです
会社を廃業したのも息子に経営の苦労をさせたく無く判断しました
小さな会社ですが現場は大きく材料代の建て替え等資金面がたいへんです
私の時代は弟も居たし兄弟で苦労を分かち合いが出来ました
一人息子には全ての苦労が両肩に掛かりますし時代も変わりました
コロナ後の時代生き抜くのが難しくなりました
輸入材料も手に入れる事が難しいし通常の1,5倍のコストがかかります
それで社員・弟・息子と話し合い売上黒での廃業を決めました
社員が数十人いると暇な時期は大変で数人の会社の方が生き抜きやすいです
振り返ると私の決断は正しかったようです
今は仲間の会社に数人の社員と共に勤めています
弟は自身の息子2人と数人の社員と新会社を設立して頑張っています
給料は同年代のサラリーマンより遥かに多いようです
自宅通勤なので年数〇〇貯金出来るそうです
自宅から愛車で出勤し気楽な身分のようです
自宅は全て息子のものになるので私が健在のうちに倉庫を壊し、
プレハブ物置を裏の敷地に設置しました
其処にもう一台の車スペースを自宅に確保しました~~~合計3台駐車可能です
借りていた駐車場は全て返しました
玄関もリホームし屋根瓦もリホームしました
佐貫の会社建物も売却出来ました
会社関係は全てうまく処分できました
息子が勤める会社は社員も多く週休2日でカレンダー通りの休日だそうです
そんな私の気持ちを理解してくれてるようです
これからは働き方改革の時代ですね
ガールフレンドは居るようですが結婚する様子はないようです
孫はいつになる事やら・・・・・・・・?
妻と日帰りドライブすると「孫が早く見たい」と言います
こればかりは息子の人生ですから~~~~~~~~~~。
おやすみなさい では
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(私の自慢~~係長時代)
私の愛車グロリアハードトップです(当時4**~5**万位です)
会社では私が一番の高級車を乗り回していました♫
共稼ぎ子供なしでしたので好きな車に金をかけられました
グロリアの前は歴代のスカイラインを乗っていました
一番はジャパンで二番は箱スカで三番はケンメリです
(20代後半私の愛車)
私が〇〇〇〇電気会社の係長時代で30代前半です
数年後退社しました
そして兄弟で会社を立ち上げました
結婚はしてましたが子供はいませんでした
人生で一番輝き・景気も良く・仕事も充実・夜の女性に〇〇〇〇でした~~
現場経費も多く全て使えました・良き時代でした❤❤❤❤❤❤~~~❤❤❤❤❤❤
現在は軽自動車の日産です
充分満足し幸せを感じています
おやすみなさい では
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(20代の思い出) *コーヒー牛乳~~💖味*
雪印のコーヒー牛乳の味は半世紀変わっていませんね
二年間、銭湯の中庭の池の廊下の椅子に腰かけコーヒー牛乳瓶を
錦鯉を見ながら汗を乾かし飲みましたが値段は忘れました
東京郊外の2年半の同棲生活です
本社勤務を終え各現場事務所勤務になりリーダーになりました
私は都内の会社寮を出て各現場配属になりました
都内現場の見習いが終わりました
そして都内郊外の2年間の現場です
競馬場の施設建物、10階建官舎でコンクリート造です
現場勤務が始まると彼女の住まいが近かったです
当時彼女は2DKで風呂無しの2階建て12所帯のアパートでした
車で2K走った団地の商店街横の銭湯に毎日通いました
当時は銭湯代が60円でした
忘れられない思い人です
彼女は高校出て上京して2年頃でした
私がバック1つで彼女のアパートに転がり込んでいました
彼女は初めての経験で〇〇でした
男は私が初めてだったそうです
あんなに愛していたのに・・・・・
でも結婚までは続きませんでした
何方が悪いのか分からず現場が終わり半年後愛も終わりました
私はアパートを出て新しい現場勤務ですので通勤便利な場所の1Kアパートに移りました
2年6ヵ月の愛と同棲が終わりました
私には「結婚」という文字は無かったようです
お互い若過ぎたようですが全て私が悪いのです
彼女はこのまま将来結婚を望んでいたようですが~~~
私が決断する勇気がなかったです
もし~~彼女と結婚していたら又違った人生でしょうね
今振り返っても別れた事に後悔はありません・・・・・・・・・・
古希の私はいま幸せです・・・・・
妻との人生1mmの後悔はありません
むしろ妻に感謝しています~~~~~私を選んでくれた事を・・・
60代後半の彼女は素敵に歳を重ねて元気に過ごしているでしょう
彼女も新しい人生を歩み幸せに暮らしている事を望みます・・・・・
年初めの神社で彼女の幸せを毎年お願いしてます
私に出来る生涯の片思いです
おやすみなさい では
https://blog.goo.ne.jp/suzuden06601800/e/55996f650eee1080604f116357ebf915
(浜省です)
(浜省 プロフィール 生年月日)1952年12月29日 71歳
🎵 古希でも 浜省ファンです 🎵 |