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些細な日常

結城永人の些細な日常という言葉は思い入れが強くて誰でも直ぐに分かるような感じではないので、ブログの題名に付けられた経緯とそこに込められる詩的な意味合いについて明らかにしたい。

ブログの些細な日常

些細な日常の桜の木の枝に留まる鵯

僕がブログに些細な日常という題名を付けたのは自分が日常的に考えることを書きたいと思ったからだ。

それだけならば「日常」とか「僕の日常」なんて感じで構わなかったけど、しかし敢えて「些細な」という形容詞を付けて修飾することにした。

なぜかというと日常的な考えを書くというブログを特別なものとして捉える気持ちがあったためなんだ。

特別なものを些細なものと呼ぶ

普通に考えると特別なものは自分にとって重要なものだから些細では全くあり得ず、むしろ正反対の意味を持つし、印象としては対極に位置して互いに相容れるようなものではない。

僕が些細なものと敢えて呼ぶのは自分への挑戦みたいな感じなんだけれども特別なものを詰まらないものとか取るに足らないものなんて調子で、たとえ矮小化して捉えるとしても変わらない気持ちでいられるかどうかを確かめたかったいということが一番に挙げられる。

特別なものが些細なものでも同じというと奇妙な話だけれどもこれは自分だけではなくて他人から捉えた場合も含めると分かり易い。

他人から捉えると自分にとって特別なものが些細なものになることが良くあることで、知らない人であれば何も分からないから大したものと思わないことが当たり前だろう。

そのときに一緒になって自分にとって特別なものを些細なものとしか分からなくなるとしたら自分が自分でなくなることと同じだから避けなくてはならないと感じるんだ。

心変わりの悲しみを避けたい

些細な日常の淡いピンクの椿の花

経験上、自分が本当に良いと思っているものは他人から何といわれようと簡単に覆されたりはしない。さもなければ大したものではなかったことが明らかになるまでだし、必死に関わり合うのも終わりかも知れない。

しかしそこで逆に自分の気持ちが変わった場合は本当に良いと思っているものでも簡単に覆されて特別なものが些細なものになってもはや特別なものでは全くなくなることがあり得る。他人から気付かされるような勘違いだったわけではなく、昔は特別なものだったのに今は些細なものとしか受け取れないという状態だ。すると大したものとしては思い出の中にしか捉えられなくなってしまうことになる。

僕が何よりも避けたいとブログについて考えるのはそうした心変わりの悲しみなんだ。

かりに特別なものが些細なものに変わることがあっても引き継いで行くというか、今は大したものではなく、失って辛くなるような重要なものでなくなったとしても反対に特別なものと同じような感じを与えるものとして受け留めたいと願う。

些細なものを人生に役立てる

個人的に自分の可能性を増やすから特別なものだけではなく、些細なものにも注目した方が面白いと感じる。又、些細なものを切欠に特別なものが得られるかも知れないし、それ自体が特別なものに変わらないともかぎらないから完全に遠ざけるのは勿体ない。

もう一つは詰まらないものや取るに足らないものへ好感を抱くことは他人へ気持ちを広げてくれる。自分の特別なものを他人から些細なものと思われることが良くあるように自分も他人へ同じように思うことが多い。そこで詰まらないものや取るに足らないものだと退けたら本当に終わりだし、自分が知らないものであれば新たに出会えるはずの何かへの感性が死んだとも過言ではないだろう。特別なものを想像することへ繋げて行く方が面白いと感じる。そして共感を伝えることがあれば相手も喜ぶかも知れない。

僕がブログを些細な日常と名付けた意味合いは特別な日常と大差ない。心変わりがあっても過去のものにせず、未来のものとして覚えておいて手放さないことを求める。そして自分の可能性を増やしたり、他人への気持ちを広げたりするために活用したいと考えている。

小さな幸せという詩

些細な日常の草の葉に留まる蜆蝶

些細な日常は詩的に捉えれば小さな幸せであって自分らしくこそ受け取る素晴らしい世界、または心に最も近くのみ得られる望みと呼べる。つまりそれだけで十二分な生き心地が得られるようなものであって今此処の生活と結び付ければ人間が心から味わえる最上の喜びであるとさえも捉えられなくはない。

日々、小さな幸せを集めることは心のままに自分らしく考えること、または生きることと切り離せない。だから人生の目的に値するし、自覚すれば他には何も要らないくらい強力な徳でもある。

些細な日常に実際に触れた記事

ブログの些細な日常の記事は全て小さな幸せから来ているけれども実際に「些細な日常」という言葉が出て来た記事を紹介する。

何が小さな幸せかという真実は人それぞれに異なるので、実際に「些細な日常」という言葉が出て来た記事を通じてさらに理解して貰えると嬉しい。

徳の積み重ねとしてやって行く

些細な日常の枯芝の横の道

僕にとって些細な日常の記事の全ては小さな幸せの寄せ集めという徳の積み重ねなので、絶えず、向上することを期待しながらやって行きたいと思う。

年々、老いるほどに書く疲れは酷くなる一方にせよ、完成すれば満足するし、誰かが小さな幸せを欠片でも見付けてくれれば有り難い。

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