国葬会場前で“安倍元首相の顔面に射的”パフォーマンス…「倫理観ズレすぎ」「ドン引き」と批判殺到
安倍元首相がプリントされたTシャツを的に水鉄砲を打つ人(写真提供:茂木響平さん)
賛否を呼んだ安倍晋三元首相(享年67)の国葬が27日、日本武道館で執り行われた。会場内では友人代表の菅義偉前首相(73)の弔辞や皇族方の供花などしめやかに進むいっぽう、会場外では国葬反対派のデモ内で目撃された“パフォーマンス”が波紋を呼んでいる。
「安倍元首相の国葬については、実施の理由や費用について説明が尽くされないまま、国会を通さず閣議で決定され、国民の間で賛否が分かれる事態となっていました。実施が決まってから、反対派は都内各地で集会やデモを行なっており、国葬当日にも行われていました」(社会部記者) FNNプライムオンラインによると、国葬当日少なくとも都内4カ所で抗議活動が開催されたという。 そんななか問題視されたのが、国葬の会場である日本武道館の目と鼻の先、東京・九段下で催された抗議デモで目撃されたある行動。ことの発端は、国葬の様子を見にきた男性がTwitterで投稿した以下のツイートだ。
《国葬会場の前でやってる国葬反対デモを見に来たんだけど、安倍晋三を的にした射的をやりはじめる人たちが出てきてヤバすぎる盛り上がり方してる》 併せて、安倍元首相の顔写真がプリントされたTシャツを着た人を的に水鉄砲のようなものが向けられている写真も投稿された。 この投稿をした茂木響平さんに話を聞くと、一連の様子について、こう語る。 「デモ隊の行進が国葬会場近くの九段下あたりまで来たタイミングで、射的のパフォーマンスをする人々が現れました。
おそらく、もともとこうしたパフォーマンスをしようという目的でデモ隊に混じっていたのでしょう。かなり注目を浴びていて、警備にあたっていた警察とも小競り合いのようになっていました」 さらに国葬会場の近くまで進むと“安倍元総理を的にした射的の屋台”が出店されていたという。 茂木さんはその状況を《国葬会場前、安倍元総理を的にした射的の屋台が出店されていて、通行人が普通にやりはじめている。いくらなんでも怖いよ…》とツイート。あわせて投稿した写真には、まるで縁日の射的の屋台のように安倍元首相の顔写真が板上に並べられ、そこにおもちゃの鉄砲のようなものを向ける人の姿があった。
「デモ隊のなかで“射的パフォーマンス”が始まった当初は、周囲も国葬反対派ばかりなので『もっとやれ!』という反応の人もいました。けれど、屋台は反対派以外の人々も目にしていたので、さすがに引いている感じがしました。通行人のなかには子連れの人もいましたし……。いっぽうで、射的を撃ちたがる人も結構いました」(茂木さん) 茂木さんがこれらの様子を写真付きでTwitterに投稿するとすぐに拡散され、批判の声が相次いだ。
《安倍元首相の写真を使って射的をしてるとか頭おかし過ぎる。故人で遊ぶなんて倫理観が人間とはズレ過ぎてる。人間じゃないなら何者なんだろうか。》 《もはや国葬関係ないやん…。故人の写真で射的とか本気でドン引きした。》 《亡くなった人の写真で射的とかもう引くとかのレベルじゃないぜ…モラルとかないんだろーな。まじで理解不能。》 国会前での抗議集会には、安倍元首相を銃撃した山上徹也容疑者のコスプレをした人々も現れたという。行き過ぎたパフォーマンスにモラルが問われている。
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私が77歳で総理になった鈴木貫太郎を尊敬しているのは理由があります。まずは、スピード感です。就任4カ月間で終戦を実現したのです。自らは命を脅かす危険にさらされながらも、数千万人の命を救いたい。それが貫太郎の目的です。就任当初は、その目的実現のために、陸軍を暴走させない発言を繰り返しました。まさに目的達成のためのリアリストだったのです。(略)
私が貫太郎の人間性を知るうえで、印象深いのは、総理就任直後の4月11日のエピソードです。アメリカのルーズベルト大統領が急死しました。ルーズベルトといえば、敵国の大将です。それなのに鈴木はこんな発言をするのです。
▲写真 ルーズベルト大統領(1936.01.01) 出典:Photo by Keystone Features/Getty Images
「今日の戦争において、アメリカが優勢であるのは、ルーズベルト大統領の指導力がきわめてすぐれているからです。その偉大な大統領を今日失ったのですから、アメリカ国民にとっては、非常な悲しみであり、痛手でしょう」。
ドイツ人の作家で当時アメリカに亡命していたトーマス・マンは「ドイツ国民のみなさん、東洋の国日本にはなお騎士道精神があり、人間の死への深い敬意と品位が確固としてあるのです。鈴木総理の高い精神に比べ、あなたたちドイツ人は恥ずかしくないのですか」と訴えました。
かたりあひて 尽しゝ人は 先立ちぬ 今より後の 世をいかにせむ
これがきっかけで、本書(電子版)がアマゾンのベストセラー1位になっているが、この歌にはちょっと首をかしげた。山県は伊藤に「尽くす」関係ではなかったからだ。もちろん弔辞だから故人を持ち上げたのだろうが、山県と伊藤はライバルといったほうがよい。
2人とも長州藩士だったが、山県は1838年、伊藤は1841年生まれである。2人とも足軽の子で、江戸時代には一生、指導者にはなれない身分だった。松下村塾に入って尊王攘夷の思想に共鳴したところまでは似ているが、山県は優等生ではなかったのに対して、伊藤は藩の留学生として井上馨とともにヨーロッパに行った。
伊藤はロンドンで西洋の強大な軍事力に驚き、帰国して長州藩の家老に攘夷思想を捨てるよう説いたが、山県は攘夷にこだわり、その後も2人の路線対立は残った。伊藤が西洋をモデルにして憲法を制定し、立憲国家の建設を急いだのに対して、山県は軍備強化に力をそそいだ。
伊藤は内閣が軍をコントロールできない憲法の欠陥に気づいて、その改革を試みたが、山県は政党政治に反対し、統帥権を独立させた。この2人のねじれた関係がその後の日本の進路を決めるが、この対立は1909年に伊藤が暗殺されて突然、終わってしまう。