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読者の皆様へ

昨年来、沖縄タイムス編著『鉄の暴風』による歪められた沖縄戦の歴史を是正すべく、「慶良間島集団自決」を中心に長年当ブログで書き綴ってきた記事をまとめて出版する予定でした。 ところが思わぬ難問が続出して出版の足を引っ張りました。 

まず昨年末から今年の初めにかけて、思わぬ腰痛を患い寝たきり状態を余儀なくされました。 そのため、ブログを休載したり、今まで経験したことのないコロナ禍、ウクライナ戦争で思考が乱れ、加えて安倍元首相の暗殺というショッキングな事件で右往左往し、脱稿が遅れてしまいました。

最後のそして最大の難関が出版費用の問題です。

出版不況の折、すでに忘れ去られた感のある「沖縄集団自決」という地味な問題の出版に興味を示す出版社が無いという現実です。

 

■出版費用の献金のご協力願い

しかしながら、沖縄タイムスが、梅澤、赤松両隊長の名誉を傷つけ、同時に旧日本軍を「残虐非道」と決めつける反日史観に対し、已むに已まれぬ思いで立ち向かう決意です。

出版の目的の詳細は下記引用の「前書き」(※)に、説明してあります。

※★前書き★

皆様の献金ご協力を伏してお願い申し上げます。

献金額の多寡は問いませんが、一口1000円以上にして頂けると幸いです。

まことに勝手なお願いですが、宜しくお願いいたします。

狼魔人日記

江崎 孝

お振込先

  • 金融機関:ゆうちょ銀行
  • 名義:江崎 孝
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  • 金融機関:ゆうちょ銀行
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  • 店番:708
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※「前書き」に続き、週一回の割りで本文の一部を抜粋、紹介して、皆様のご理解に供したいと思います。
 
 

 

ノーベル賞作家への配慮が裁判官を萎縮させた!秦郁彦氏2009-05-22 07:

 

沖縄タイムス 2009年05月21日 コラム  [大弦小弦]

 SMAPの木村拓哉さんが検事に扮する映画「HERO」で、天秤を手にした目隠しの像が何度か出てくる▼司法・裁判の公正さを象徴する「正義の女神」である。右手には社会の悪徳から守る「剣」を持ち、左手には善悪を測る「天秤」。目隠しは、貧富や姿形など、予断から判断が曇るのを避けるとの意味が込められているという▼裁判が神の審判とされた古代や中世では、目隠しはなかった。目隠しをするようになったのは「法の平等」の概念が生まれた近世以降という。神に代わり、「人」が「人」を裁くには、目の前の物事に惑わされない理性が必要ということらしい▼目を閉じて考えてみる。殺害された幼い被害者がいる。残された遺族の悲しみがある。それを天秤の片方に載せ、それに見合う罰をもう片方に載せていく。その時、「許せない」という感情を理性で抑えることができるだろうか▼無実を訴える被告がいる。物的証拠も乏しい。判断を誤れば、被告の人生は大きく狂ってしまうかもしれない。自分ならどう判断するか。人を裁くことがいかに難しいのかをあらためて思う▼市民が司法参加する裁判員制度がきょうから始まる。裁判官とともに、市民が目の前の生身の人間を裁かねばならない。「女神」の精神を胸に誓うも、不安、迷いも消えない。(稲嶺幸弘)

                  ◇

沖縄タイムスが、裁判員制度導入についてのコラムで、キクムタクを導入に使っているので、これに対抗するわけではないが、男の中の男高倉健をまくらにつかって同じく裁判の秤に触れてエントリーしたことを想い出した。

その「大江健三郎のいかがわしさ」から一部抜粋引用する。

<♪義理と人情を秤にかけりゃ 義理が重たい 男の世界♪(映画『網走番外地』主題歌)

・・・と高倉健は唄った。

大江岩波集団自決訴訟で、人権と表現の自由を秤にかけた、大阪高裁の小田裁判長は、「表現の自由」が重いと裁決した!

                                              *

人権配慮にかまびすしい昨今のマスコミ世論の中で、大阪高裁の判決は人権尊重には後ろ向きともとれる判決である。

裁判長が、人権より表現の自由に重きをおいた理由は、原告と被告の社会的バックボーンにある。

人権を主張した原告の一人は高齢の元軍人である。

一方、表現の自由を主張する被告は、戦後民主主義を代表する大手出版社とノーベル賞作家。 

表現の自由を主張する被告が、そのものずばりの表現・言論の自由を体現する出版社と作家であれば、裁判長の秤の目盛りが被告側に傾くのも、むべなるかなである。

更に原告の元軍人はかなりのご高齢である。

裁判長の判断に、

被告の表現の自由を守るためには、高齢の元軍人に少しぐらいの人権侵害はあっても、かまわない。老い先短いのだから我慢せよ!」といった驕りが潜んではいなかったか。

被告側から「判決文の何処にそんなことが書かれてあるか!」と横やり飛んで来そうだが、判決文には、こう書かれている。

仮に後から出た資料で誤りとみなされる主張も、言論のばにおいて無価値なものとはいえない。 これに対する寛容さこそが、自由な言論の発展を保障するものである

間違った主張でも寛容になれ、つまり「我慢せよ」と書いてあるではないか。

確かに「老い先短いのだから」とは書かれてない。

だが小田裁判長の心の中で、「被告のノーベル賞の重さと原告の短い老い先」が、天秤に掛かっていなかったと誰が否定できよう。>

                                                *

沖縄タイムスのコラムは裁判官が原告、被告両者の貧富や社会的地位などで判決に予断が入る危険性を次のように表現している。

>目隠しは、貧富や姿形など、予断から判断が曇るのを避けるとの意味が込められているという

だが、大阪高裁の裁判長は被告大江健三郎のノーベル賞の虚名と岩波書店の「戦後民主主義の発信者」としてのブランドに慄いて判断の目を狂わした。

近現代史の専門家秦郁彦さんは著書『沖縄戦「集団自決」の謎と真実』で次のように大阪高裁判決を批判している。

<「傍論」だらけの高裁判決

(略)

一番気になった説示を次に引用したい。

《このような歴史的事実の認定は・・・・本来、歴史研究の課題であって、多くの専門家によるそれぞれの歴史認識に基づく様々な見解が学問の場において論議され、研究され蓄積されて言論の場に提供されていくべきものである。
司法にこれを求め、仮にも「有権的な」判断を求めるとすれば、いささか場違いなことであるといわざるを得ない。(124ページ)》

前半は高邁な民主主義の理念を高所から説いているかのようで、「御説ごもっとも」と相槌を打つしかない。 だが、他の説示と合わせ読むと、後半は半世紀以上も昔の歴史的事件は歴史家同士の学術論争に任せればよいのに、裁判所へ持ち込むな、原告のような元軍人(公務員》の場合は特にそうだ、とたしなめているようにとれる。
「放置しておけば足りる程度」(小田判決、276ページ)とか「司法的救済を求めることが遅滞した」(深見判決、100ページ)といった説示は、同じ流れから派生した「傍論」(暴論?)かもしれない。
しかし、刑法はわざわざ1章(第34章名誉に対する罪)を設け、「公然と事実をて摘示し、人の名誉を毀損した者は、その事実の有無にかかわらず、3年以上の懲役・・・」(第230条)と既定している。 本件は民事訴訟であるが、原告(座間味島守備の梅澤裕少佐と渡嘉敷島守備の故赤松嘉次少佐の実弟)の名誉権と人格権を侵害したとして、『沖縄ノート』等の出版差し止め、謝罪広告、慰謝料の支払いを請求している。 しかも、この種の名誉毀損訴訟の事例は珍しくないというより、しばしば起きていると言ってよい。
裁判所は争点をピンポイントに絞り、法や判例に依拠した明快な判断を示すべきで、こんなことに関わりたくないと逃げ腰を見せるべきではあるまい
。 第一審判決も似た例はあったが、第二審の小田判決には他にも「傍論」がいくつかあり、法理にそぐわぬレトリックや非常識な説示が少なくない。 具体例はあとで取り上げることにして、大方の専門家の間で原告勝訴と予想された本件訴訟が、なぜか敗訴してしまった理由を関係者や事情通に聞いてみた。 意見はさまざまだが、つぎのような三説に集約できそうである。

1.ノーベル賞作家への配慮

ノーベル賞の受賞が最高のブランドとしてもてはやされるのは、先進国で日本だけだろう。 特に文学賞は100年間に二人(川端康成、大江)しかいないだけに、希少価値も加わり、半ば神格化している感もある。 実態は玉石混交(私見では『沖縄ノート』は石に属す)であるにせよ、その大江の著作を発行差し止めににすれば内外の大反発を招き、「文化・芸術の敵」呼ばわりされかねぬと裁判官が萎縮した。 その代償が、曽野綾子氏は「偏向したフィクション」の作家トランクづけされてさいまう。(略)>

時系列的にいえば『うらそえ文藝』で星氏と上原氏が対談したとき(2008年12月27日)には『沖縄戦「集団自決」の謎と真実』はまだ発行されておらず(2009年3月7日発行)、星氏が上記引用の秦さんの「ノーベル賞への配慮」のくだりを読む機会はない。

にもかかわらず星氏も大江を弁護する勢力が歴史論議は棚上げして、大江を批判する論者を「文化・芸術の敵」呼ばわりする大江狂信者の例を挙げ、ノーベル賞を論議に持ち出す愚さを批判している。

『うらそえ文藝』より再度引用。

近年来、この問題を論評する人たちが、大江健三郎を尊敬するあまりその問題の論文の中には、芥川賞を受賞した初期作品をずっと大江作品を愛読してきたとか、ノーベル賞作家云々の決まり文句添えて書いていたが、あれは逆効果だったし、説得力を弱めていた。

冒頭の沖縄タイムスのコラムに戻る。

大阪高裁の小田裁判長は、被告大江の社会的名声と岩波書店のブランドに幻惑され、ことの真偽を計る「天秤」の目盛りを読み違えてしまった。

そして裁判官本来の仕事である「争点をピンポイントに絞り、法や判例に依拠した明快な判断を示す」ことから逃避した。

裁判官が予断をそぎ落とし、刑法第34章(名誉に対する罪)の第230条「公然と事実を摘示し、人の名誉を毀損した者は、その事実の有無にかかわらず、3年以上の懲役・・・」を粛々と適用すれば万に一つも被告が勝訴するとは考え難い。

 

『浦添文藝』の衝撃はネット上を駆け巡っているようだ。

ザッと拾っただけでこんなブログがあった。

浦添文藝

「対談 集団自決をめぐって」(『うらそえ文藝』第14号)

うらそえ文芸第14号2009年が面白い!

 

東京発信でこんなのも(爆)。

うらそえ文藝発刊されたらしいが、 (05/16)

「うらそえ文藝」4月30日刊行 (04/17)

沖縄棲息ブロガーのつまみ食い