哲学の科学

science of philosophy

身体の存在論(4)

2024-03-02 | yy94身体の存在論


ぼかしを使うテレビの顔隠し 肖像権が理由といいますが、顔を見て他人の心を識別するのも面倒だ、という視聴者の怠惰に忖度している、ともいえます。
自分の裸体を顕示して性的興奮を得るエクスヒビショニストたちが顔だけを隠す、アイデンティティーの倒錯を描いた小説(二〇〇八年 平野啓一郎「顔のない裸体たち」)。
自撮りをSNSに投稿して世界に頒布する、いまや健康的と思えるようになったスマホ趣味も、昔の人からみると病的自己顕示、非性的ではあるがエクスヒビショニストと見えるでしょう。

メタバースの中でアバターを動かす。自分の身体とどう違うか?変身願望か?しかしディスプレイのこちら側のこの身体は何なのでしょうか?
アバターがメタバース内のパソコンやデバイスでアバターを作ってメタバースをしたらどうなるでしょうか?それを繰り返したらどうか?その無限後退の神秘感が身体の存在論なのかもしれません。

私は、私の身体がここに存在している、と思っています。私が感じているこの存在感が存在の根拠である、と思っています。しかし、拙稿の見解によれば、その感覚は他人が私の身体を見て感じる存在感覚とそれほど違わない(拙稿41章「身体の内側を語る」)。もしそうであれば、私の身体の存在はあまりしっかりしたものではないかもしれません。











自然科学ランキング

コメント    この記事についてブログを書く
« 身体の存在論(3) | トップ | 身体の存在論(5) »

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

文献