哲学の科学

science of philosophy

身体の存在論(5)

2024-03-09 | yy94身体の存在論


外界を見ていない時、目をつぶっている時でも記憶している光景が思い浮かびます。寝ている時でも目の前に光景は浮かぶ。つまり夢を見ます。これは何だ。世界が感じられないのに世界は感じられる。夢は自分の身体が世界を作り出しているという経験です。

夏目漱石の「夢十夜」を読んでみます。

こんな夢を見た。
 腕組をして枕元に坐っていると、仰向に寝た女が、静かな声でもう死にますと云う。女は長い髪を枕に敷いて、輪郭の柔らかな瓜実顔をその中に横たえている。真白な頬の底に温かい血の色がほどよく差して、唇の色は無論赤い。とうてい死にそうには見えない。しかし女は静かな声で、もう死にますと判然云った。自分も確にこれは死ぬなと思った。そこで、そうかね、もう死ぬのかね、と上から覗き込むようにして聞いて見た。死にますとも、と云いながら、女はぱっちりと眼を開けた。大きな潤のある眼で、長い睫に包まれた中は、ただ一面に真黒であった。その真黒な眸の奥に、自分の姿が鮮に浮かんでいる。
(一九〇八年 夏目漱石「夢十夜」)

こんな夢を見た。と言っているから、今はもう起きていて夢を思い出して語っている、ということでしょう。つまり、ここにこの世界があって、その中に自分の身体があって、その身体がこの夢の話を語っているのだ、と思っているのです。
夢は身体の内側だけで起きていることですから、そこで経験する物事は全部自分の身体が作り出しているのでしょう。そうであるとすれば、覚醒している時に感じ取っているこの世界も私の身体がこれを作り出している、ということもできます。
目に見えるものや五感で感じられる物事は、もちろん、身体の外側からくる光や感覚刺激からきている。外界の刺激と身体の内側からくる記憶再生や感情や気分がまじりあって、この世界が現れている、とも思えます。

夢も現実も、どちらも自分が感じているから存在するのだ、という観点でいえば、区別する必要もない、相対的なものだ、と言ってしまうこともできます。
夢で蝶々になっていれば人間として覚醒している現実も蝶の夢の中でそういうバーチャルリアリティを見ているのだ、ということもできます。
つまり:
昔者莊周夢爲胡蝶栩栩然胡蝶也自喩適志與不知周也俄然覺則蘧蘧然周也不知周之夢爲胡蝶與胡蝶之夢爲周與周與胡蝶則必有分矣此之謂物化(紀元前三世紀 荘子「胡蝶の夢」)、となります。











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